前のブログで、9.11の事を書きました。
その記事を書きながら、9.11とその後の事が気になり出して、Amazaonで、次の2冊の本を買いました。
太さんの本は、電子書籍で購入し、早速読み始めています。
9.11直後からパキスタン入りされ、その後、パキスタンに駐在されていました。私の駐在時代とも重なり、若干の面識もある方で、その後もNHKの放送で、登場され的確なイスラム、アラブ報道をされていると感心していました。
「9.11レポート」に関しては、米国多発テロ20周年にあたり、その真相究明と言う点で大変興味深く、拝読するのが楽しみです。
太さんが、9.11直後にパキスタン入りされたのとは逆に、我々民間人は、日本政府の指導の下「緊急一時退避」を行った事は、前のブログにて記載しました。
では、どの様な事が起こっていたのか、記憶を記載したいと思います。
駐在員の一時退避と言う状況ですから、総領事館経由の日本政府の指示を頂くと同時に日本の本社(特に人事部)とは、連絡を密にしておりました。退避方法に付き、本社との合意事項は、
・一時退避の期間が不明ゆえ、駐在員は、当面バンコクにて待機、
・家族に関しては、バンコクから直接日本に一時帰国
となりました。
まぁ、時効だと思いますので、言いますと、この時会社からは、大変興味深い指示を受け取りました。
曰く「緊急退避に際しては、ゴルフバック等ふさわしくないものを持ち出さない事」でした。
聞くところによると、その直前にアジアの別の国でも同様の一時退避があり、駐在員がゴルフバックを持ち出し、退避地に到着したところをマスコミに取材され、不謹慎との批判を浴びたためとの事でした。
蛇足ながら、付け加えますと、我々、バンコク退避中は、遠隔でできる仕事も限られており、会社の意図に反し、時間つぶしでゴルフも行っていました。
とりあえず、会社との決定通り、バンコクで家族と別れ、家族は一時帰国、日本の実家で仮住まいと言う状況になりました。
我々、駐在員は、バンコクで待機していましたが、一週間経っても、カラチに戻れるという状況にはなりませんでしたので、我々も結局は日本に一時帰国する事になりました。
一時帰国後は、実家ベースで、電話やメールで連絡を取りながらの遠隔業務となりました。
私の場合は、名古屋ベースでの業務でした。
この様な「緊急退避」と言う事態は、記事になるのか、私が、会社に出社中にある新聞社が家内を取材していったとの事を聞きました。
家内は、正しい状況をお話したのにもかかわらず、記事の内容は、記者の先入観に基づく大変曲解されたものでした。
会社経由で、その新聞社に一応抗議は行いましたが、回答も修正も得られませんでした。
加えて、テロにかかわるこの様な事件において実名報道をされましたので、若干の危険を感じました。
当時は、まだまだ個人情報保護が行き届いてなかったと今も感じています。
そうこうしている内に、この一時帰国は長期戦になりそうだと言う事で、パキスタンの自動車メーカー関係の駐在員は、東京にて仮事務所を開設して遠隔で、業務を遂行して行くことになり、家族で東京に移動しました。
長男が「カラチ日本人学校2年生」でしたので、一時帰国していた日本人学校の先生にも相談し、日本の小学校に通わせる事になりました。
その時、東京都中央区のホテル住まいでしたので、中央区の小学校にお世話になる事となりました。
その後、駐在前の居住地であった千葉県の浦安で仮の暮らしを年末まで続けることになりました。
浦安には、自宅がありましたが、駐在期間中は、そのマンションを貸していましたので、自宅の近くのアパートに入っていました。
現代の様にテレワークの環境もほとんどない時代でしたから、「東京分室」(こう呼んでました)からパキスタンへの遠隔操作は、大変困難な物でした。
太さんには、申し訳ありませんが、連日のニュースで、NHKの女性アナウンサーが、イスラマバードのホテル屋上から通り一遍の出来事を伝えてこられる姿をみて、なぜこの様なパキスタン素人がパキスタンから報道しているのに、我々、言ってみれば、パキスタンのプロが日本から困難は作業をしなければならないのか?大きな疑問ではありました。
あの時期は、2002年上半期に販売開始予定の新型車の開発中でした。
通常であれば、マスプロダクション開始前に、試作車を生産し、日本からの技術者が現地に出張し、確認作業を行う事となっていましたが、駐在員も退避している状況下、技術者の出張も不可能でした。
我々が考えた方法は、パキスタン人メンバーに現地にて組付けてもらった試作車を空輸して、日本でチェックする方法で、その飛行機のスペースを確保すると言う仕事をやらせてもらいました。
乗用車一台を空輸すると言うのは、中々ハードルが高く、結構苦労しました。
パキスタンと日本との間の航空便の物量と言うのは、そんなに多くはないため、貨物専用機は飛んでいませんでした。貨物専用機であれば、乗用は一台の輸送は比較的容易ですが、旅客機の荷物スペースに入れる事ができるかが課題でした。検討の結果積み込む際の梱包方法を何とか決めて、これなら可能と言うところまで、持ち込み、2002年1月某日で、フライトスペースの予約まで行いました。
12月に入ったころ、何とか情勢も安定して来ましたので、先ずは駐在員のみ12月中にパキスタン入りする事ができました。家族は、2002年の1月まで、待つことになりました。
と言う状況下、1月には、何とか日本の技術者をパキスタンに迎える事もできましたので、車一台の空輸はキャンセルとなりました。
家族の再赴任に当たっては、日本人学校再開問題があり、この点の苦労しました。
このことは、次回ブログの記事とします。
次回に続く…。
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