このところ3回に渡り、2001年9月の「9.11米国同時多発テロ」によるパキスタンからの「緊急一時退避」に関する記事を書いてきました。
一時とは言え、私、本人は、12月まで、家族は、年明けの1月までの、結構長期の一時帰国となりました。
もうこれで、当分、落ち着いてパキスタンでの駐在業務が続けられると思っていましたが、世の中そんなに甘くありませんでした。
こちらは、ご存知の方は少ないと思いますが、兎角もめごとの多い隣国インドとの関係が悪化していた時期でした。
2002年5月中旬頃からだったと記憶していますが、在カラチ日本国総領事館より、注意喚起が始まりました。通常のパキスタン―インド間の国境付近のいざこざであれば、退避勧告はありませんが、その時は、通常の範囲を超えて、両国が保有している「核のボタン」が押される可能性が出てきたとの日本政府の分析でした。
インターネットで確認したところ、最終的には、在パキスタン及びインドの在留日本人に対して2002年6月4日に「国外退去勧告」が発令されました。
我々カラチ在留者に対して、その2,3日前だったと思いますが、総領事館主催で、「緊急安全対策会議が」招集され、各在留企業の代表者が集められました。私も、上司と共にその会議に出席していました。
会議にて、総領事館から、核保有国である両国の関係悪化と核兵器使用の可能性に付き説明があった後に、各社の駐在員及びその家族、出張者等の動向に関しての確認がありました。
上司が回答を行いましたが、その内容は、
「弊社は、カラチ駐在員3名その家族合計5名、総勢8名で、退去に必要な航空券は手配済みです。現在出張者はおりませんが、今夜到着する便で1名到着予定です。」
と言うものでした。出張者は、間もなくパキスタンから出ると言う報告は他社さんからも複数ありましたが、その日の夜に入ってくる出張者の報告をしたのは弊社だけでした。
気まずい顔で報告をしていた上司の顔が今でも目に浮かびます。
その出張者は、入社以来パキスタン一筋のキャリアで仕事をしてきた私の1年先輩でした。彼はそれまでに2度に渡るカラチ駐在の経験もあり、「パキスタン政府入札のプロ」と社内でも皆が認める男でした。
たまたま、パキスタン政府治安関連の車両入札の最終局面が訪れており、最後の一押しに出張に来ると言うものでした。
実際に、彼は、その夜カラチに到着、次の日にイスラマバードの政府関係機関に行き、最終交渉を行い、その時の入札も最終的にものにしました。
結局、その後、数日間の間に、我々家族にとっては、2度目となる「緊急一時退避」が決定し、カラチを離れざるを得なくなりました。
なぜか理由は思い出せないのですが、多分航空券の手配の関係だったかと思います、私の家族は、私が退避するより1日前にカラチを離れたと記憶しています。
上述の先輩は、とんぼ返りで、カラチを後にしましたが、私の家族は彼のフライトと同じフライトで、最終的に旅慣れた彼に家族は大変お世話になりました。
この時は、我々、駐在員も日本にダイレクトに帰国し、再び自動車生産拠点関係者は、東京にて遠隔支援を始めました。
折しも、サッカーワールドカップ日韓合同開催が開幕した直後で、パキスタンに滞在していたらテレビで見られない試合を見る事はできました。
この時も、「カラチ日本人学校」派遣教員の皆さんも、緊急退避され、前回同様、文科省に「連絡事務所」ができていました。パキスタンとインドの日本人学校が集まったもので、より規模の大きな「連絡事務所」となっていました。
私の記憶によれば、この時は、危機回避が「9.11」の時に比べ短時間で行われました。
確か、一か月弱の内に危険度が下がり、各々の任地に帰ることができました。
パキスタン在留邦人に加えインドからの退避者は、相当な数に上がっていましたので、外務省の対応が少し違っていました。
「退避勧告解除」に当たり、外務省飯倉公館の会議室にパキスタンとインドからの退避者に対し、説明会が開催されました。
そこで、退避からその時に至る経緯等と再び渡航ができる旨の説明があった後に、参加者から質問の機会が与えられました。
私は、すかさず手を挙げて、
「昨年の、9.11に係るパキスタンからの緊急一時帰国で一旦閉鎖となった日本人学校の再開に当たり、大変苦労した。言いにくい事ではありますが、外務書と文科省がそれぞれの立場で中々うまく連携して頂けず、再開の足かせとなっていたと感じています。今回はその様な事なく、外務省、文科省の連携を図って頂き、早期の再開を確保頂きたい。」
と言う様な内容でした。
次の日、カラチ日本人学校の連絡事務所詰め先生から連絡があり、あの発言が起爆剤となり、外務省職員が連絡事務所に早速訪れ、文科省とも相談の結果、即、在パキスタン及びインドのすべての日本人学校の再開が決定したとの事でした。
ちょうど、外務省が舞台となっていた、所謂「鈴木宗男事件」の真っただ中で、外務書がマスコミから大分追及されていたタイミングでしたので、それも影響したのかなと個人的に思っています。
次回に続く…。
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