Pacoの歩み

誕生から小学生(1960年~1972年)
1960年2月愛知県生まれ
1964年 東京オリンピックは、ばあちゃんと白黒テレビで観た記憶がある。
1966年 小学校入学
1970年 小学校4年生 テレビで見たアマチュア無線の様子にあこがれ、通信教育を受けて電話級アマチュア無線技士の試験を受けるが、不合格。通信教育代を負担してくれた親には申し訳ない事をした。
地元のお祭りで、パレードの先導をしていたボーイスカウト、カブスカウトの中に友人を見つけ、かっこいいなぁと思った。次の日、カブスカウトへの入団を決めた。父は、Pacoは直ぐに辞めるだろうとの想定にて反対はしなかった。その後、大学卒業後まで、ボーイスカウト活動を続けたことは、両親の想定外であった。
日本で初めて開催された大阪万博、アメリカ館の月の石と三菱未来館の展示に感激。
1972年 小学校6年生 札幌オリンピックでジャネット・リン選手の銅メダルに感激

中学校(1972年~1975年)
1972年 中学校入学、軟式テニス部に入部するも、消極的な参加であった。一方、ボーイスカウト活動には、このころからのめりこんで行った。
この頃、日本の一部でBCL(Broadcasting Listener)(特に短波放送で海外放送を受信する趣味)がはやり、それに乗って、はじめは海外の日本語放送、次第に英語放送を受信し、受信証明書をもらうことが楽しかった。高校受験の妨げになるとの理由で、親からはラジオを聴くことを禁止された。禁止されても、隠れてこの趣味を続けていたが、ノイズの中から聞こえてくる英語を少しでも理解しようとしたことは、リスニング力の訓練となったと自負している。

高校(1975年~1978年)
1975年 愛知県内公立高校へ進学。軟式から硬式に変更してテニス部には入部するも、積極的には参加せず。シニアスカウト活動に一層のめりこんだ。
1975年年末から76年年始に掛けて、オーストラリアのベンチャー(日本のシニアスカウト)大会への日本派遣団に応募。父は、受かるわけがないと、応募を許可してくれたが、75年の夏に世界ジャンボリーがあり、優秀なメンバーはそちらへの派遣に行っていたので、比較的簡単に派遣団に選考され、初めて海外に出た。英語が全く通じないことを実感した。
帰国後、毎日、日本短波放送で、「百万人の英語」を聴いて、勉強した。当時「百万人の英語」は、愛知県の放送局では放送していなっかたので、日本短波放送または文化放送で聴くしかなかった。
高校時代もBCLを続けており、当時好きだった放送は、エクアドルからキリスト教団体が日本語で放送していた「アンデスの声(HCJB)」であった。
英語学習を地道に継続したことにより、当時試験的に一部の私立大学で始まっていたヒアリング(当時はなぜかヒアリングと呼んでした)の試験を有効利用し、大学は外国語学部スペイン語科に合格した。

大学(1978年~1982年)
初めてのスペイン語会話の授業で、当時使っていたスライドとカセットテープの教材に登場する眼鏡をかけたキャラクターであるPacoに小生が似ているとスペイン人の会話の先生に言われ、それ以来大学の友人は、小生をPacoと呼んでくれた。今でも、当時の友人からは、Pacoと呼ばれている。
同じ学科の先輩に勧誘されスペイン語劇サークルに入部。大学は名古屋にあったが、中部圏には、スペイン語学科は少なく、関西の大学とのコンクール等に参加させてもらっていた。
1981年 大学3年の春休み、当時はやり始めていたバックパックを背負い、欧州一人旅を実行。イギリス、フランス、スペイン(ほとんどの時間をスペインで過ごした)及びスイスを旅した。
この旅が忘れられず、4年生の時には、友人、従弟と3人で、再びヨーロッパバックパック旅行を決行した。その時は、イギリス、ベルギー、ドイツ、スイス、イタリア、スペイン、フランスを回った。
就職は、前後の学年が結構苦労していたが、82年入社組だけ極端に簡単な年で、商社に決まった。

社会人最初の8年間(1982年~1990年)東京勤務
当時、ベネズエラとの取引を増やしていた鉄鋼関係の貿易部門に配属された。初めてのスペイン語人材で、近い将来にベネズエラに駐在含みと言われていたが、83年1月に勃発したベネズエラ通貨危機により、その路線は早々ととん挫。不良債権が残り、債権回収業務をやらせてもらった。
ベネズエラの債権回収には、約5年が掛かったと記憶している。
その後は、アジア域内の3国間貿易等も担当させてもらった。

バルセロナ駐在(1990年~1993年)
入社直前に気づいたのだが、内定をもらった会社には、スペインの拠点がなかった。スペイン語学科出身の身としては、なんとも寂しい気持ちになった事を覚えている。と同時に、できれば、自分がスペインに拠点を作ってやろうと思っていた。
こんなに早くチャンスが来るとは思ってもいなかったので、上司から新規一人事務所立ち上げの話をもらい二つ返事でOKした。
後から聞いた話では、当初、30代後半から40代前半の次長、課長クラス人材に話があったが、誰もスペインの拠点が成功するとは思わず、計算高い方々はことごとく断ったとの事であった。
何も知らない、怖いものもない30歳のPacoは、ノー天気に事務所開設、新規事業の取り込みに努力し、プライベートでも91年にお見合いで知り合い、直後から遠距離にて付き合った妻と92年に結婚した。
92年は、バルセロナオリンピックの年で、開会式のチケットも取れたので、家内と開会式も見る事ができた。
とは言っても、先輩諸氏の予想は見事に的中し、事務所としての採算が取れないので、93年3月で、店を畳むよう指示を受け、事務所閉鎖、帰国した。

アフリカ担当(1993年~1999年)東京勤務
バルセロナから帰国後、アフリカでの自動車事業関連部署に所属した。
日本からの完成車輸出に加え、南アフリカ製自動車の周辺国への再輸出、英国製自動車のアフリカ、中南米向け輸出等を担当した。
加えて、現地代理店への出資により、現地での販売網整備にも参画した。
南ア製車両の周辺国輸出プロジェクトでは、ヨナネスブルグに長期出張をし対応した。1995年1月の阪神大震災直後から約2か月南アを拠点にマラウイ、ジンバブエ、ザンビア等を回った思い出がある。
その前後で、英国製車輸出プロジェクトにも参画していたので、香港で航空券を手配し、日本から香港経由で南アフリカに入り周辺国を回り、帰路はロンドンにより英国での業務を終え日本に帰国。またはその逆で香港から欧州に入り、アフリカを回りアジアのどこか経由で日本に帰国と言う様などさ回り出張を繰り返していた。
そんな生活を続けていた中、1998年夏ごろにコートジボアールに駐在の話をもらった。2人の子供も連れて家族4人で、駐在の準備を開始した。
ところが、11月ごろになり、コートジボアールでのプロジェクトの雲行きが怪しくなり、その駐在はボツとなった。
家族が実家に帰省していた12月24日直属の上司からコートジボアールはなくなったが、パキスタンのカラチに空きができたので、行かないかとの話をもらった。家族と相談して、正月明けに回答すると答えたが、次の日に部長から、その次の日に担当役員からプッシュされた。家内に電話にて相談したところ、行ってもいいよとの事であったので、年末ぎりぎりにカラチ駐在を受けた。

カラチ駐在(1999年~2004年)
1999年4月 家族より一足先にPacoおじさんが、カラチに赴任。6月に日本出張があり、それを利用し、家族も赴任。結局、Pacoにとっても家族にとっても、海外生活最長の5年間の駐在が始まった。
仕事は、現地での自動車生産工場及びその部品メーカー向け海外部品の調達及び物流企画、現地自動車販売のアシストと言う様な内容であった。
赴任当初、パキスタンは、インドに対抗し核実験を成功させた直後にて、世界中から経済制裁を受けている状況であった。現地自動車生産工場も年間生産一万台程度の小規模生産拠点だった。
治安の問題もあり、自由に歩いて外を出歩くこともできず、外出は運転手が運転する車で行い、住んでいた大きな一軒家には、銃をもったガードマンがいる、窮屈な生活であったが、ハードシップ地域の特別休暇があり、それを利用し、一年に4,5回家族で海外旅行をすることが楽しみで、ヨーロッパ、アフリカ、オーストラリア、東南アジア諸国の旅ができた。
2001年9月11日 忘れもしない「9.11 米国同時多発テロ」が勃発した。その影響で、9月14日には、緊急避難を余儀なくされ、Pacoは、その年の年末まで、家族は、2002年の年始まで日本での一時避難生活を送った。
また、あまり知られていないが、2002年6月インドとの関係悪化により、再び日本政府より退去勧告を受け、家族で一時帰国を余儀なくされた。こちらの一時帰国は、約2週間で終了した様に記憶している。
本来、パキスタンの様なハードシップ地域の任期は、3年であったが、会社の要請を受け一年延長、自ら望んでもう一年延長したので、通算5年間の滞在となった。
自分が深くかかわっていた新型車の生産開始を見届けたかった為である。

欧州等担当(2004年~2006年)東京勤務
次の業務は、グループ小型車メーカーの輸出及び欧州での代理店管理業務であった。グループリーダーの立場で、色々な企画の提案等させてもらった。
すでに会社はイタリアの代理店に出資し、直接経営をしていた。スペインは、地場の現地資本会社が代理店業務を行っていたが、そこを買収する企画を立て、交渉を重ねた。その交渉を中心に2005年には、年間11回欧州出張をした。最後の買収交渉に出発しようと成田でフライト待ちの時、一本の電話を受けた。扱っていた小型車メーカーの親会社の欧州担当からであった。グループ内で欧州戦略立て直し中であり、スペイン代理店買収は、待って欲しいとの内容であった。部下をすでに先発隊としてマドリッドに送り込んでいたので、出張自体は予定通り実行したが、交渉は、わざと不成立にするしか方法が無かった。後から振り返れば、親会社の担当が言っていた通り、グループ戦略により、小型車メーカーは欧州から撤退したので、会社としては、無駄な投資を実行せずに済んだことにはなった。
小型車メーカー新規スペイン代理店の社長として赴任する気満々であったPacoだったが、隣のグループが担当していた親会社メーカーのスペインディーラー買収事業を手伝えとの命を受けて、その交渉に最終段階で参画した。スペイン、パンプローナでの隣県リオハディーラーとの合弁によるディーラー経営事業だった。こちらの交渉はとんとん拍子に進み、2006年2月にパンプローナにある自動車ディーラーの買収が成立し、新会社が立ち上がった。上司からは、Pacoはスペインに行く気満々だったから、ディーラーの社長として赴任せよとの申し出を頂いた。こちらとしては、望むところであったので、受けたのだが、一つ条件を付けた。小型車代理店事業もその時点であきらめてなく、代理店候補地はマドリッドであったので、家族はマドリッドに住ませ、スペイン国内単身赴任を提案。会社はこの提案を受け入れてくれ、スペイン国内単身赴任生活が始まった。

パンプローナ駐在(2006年~2008年)
パンプローナディーラーは、前述した通り合弁事業であったので、パートナーとの調整が大変であった。特に2号店出店に対する考え方の違いから、メーカーとの約束であった2号店の立ち上げが大幅に遅れた。その状況を危惧した代理店より、当方が撤退し、パートナーに持ち分売却する提案を受けた。
泣く泣く、その提案を受け入れ、2008年3月ディーラー売却を完了し、Pacoは単身帰国した。
家族は、長男の高校進学時期の問題があり、その後1年間マドリッドに残った。

パキスタン、南西アジア担当(2008年~2010年)名古屋勤務
カラチ駐在の経験もあり、今度は、日本からパキスタン事業をサポート及び南西アジアを担当する部署に配属された。パキスタンは、現地に昔の仲間もいたので、比較的入り込むのは楽であった。南西アジアは、初めて担当したが、ネパール、ブータン、スリランカ等に出張もできた。
パキスタン担当の自動車メーカーの営業部門がシンガポールに移管となったのに引きずられて、会社もシンガポールにパキスタン営業拠点を移す事になった。その組織を立ち上げるべく2010年に、シンガポール駐在となった。

シンガポール駐在(2010年~2013年)
2009年には、出張ベースでシンガポール現地法人内にパキスタン営業チームを作る作業を行った。
シンガポール人、マレーシア人、インドネシア人および日本人の多国籍チームもでき上り、2010年4月にシンガポールに赴任した。
この時は、子供たちの学齢の問題(長男高校生、長女中学生)があり、単身赴任となった。
シンガポールから、2,3か月に一度の割合でパキスタンに出張するような業務形態であった。自動車メーカーの営業拠点にも出向者を出していたが、その出向形態は、2年のシンガポール駐在プラス3年カラチ駐在が条件であった。その部下をカラチに送り出す前に、後任を要求したのだが聞き入れてもらえず、自社のシンガポール組織は現地メンバーで回せる状況にした事もあり、自分がそちらに出向する事となった。シンガポール最後の一年は、そこへの出向であったが、フィリピン、シンガポール、マレーシア、パキスタン及び日本のメンバーが所属する混合部隊で中々興味深い組織であった。
また、直接の担当業務ではなかったがシンガポールの自社現地法人が当時日本のクールジャパンプロジェクトに参加し、ほかの会社とも組んで「アジアAKB48プロジェクト」を展開していた。シンガポールで、10回以上開催されたAKB48グループのコンサートを全て観る事ができた良い機会でもあった。加えて、自社は、「AKB48カフェ」の経営を行ったいたのだが、上手く経営できている状況ではなかった。社長より、業務のアドバイザーを求められ、カフェでの酒類販売開始等を行った。このカフェも最終的には閉店に追い込まれたが、面白い経験ではあった。
2012年末に、日本から上司が出張して来て、突然地球の裏側エクアドルへの移駐の内示を受けた。

キト駐在(2013年~2015年)
2013年2月シンガポールより日本に帰国、日本でエクアドルのビザを取得し、3月に赴任した。会社が、エクアドルに2社あった自動車代理店を一社にまとめるべくその2社と合弁(合計3社合弁)で設立していた代理店社長としての赴任であった。
エクアドルは、南米、赤道直下の国で、シンガポールからはちょうど地球の反対側に当たる。ある意味、これ以上の長距離転勤はないともいえる転勤であった。
赤道直下と言っても、高度ゼロの海岸地方からアンデスの山に向かい高度が上昇し、Pacoが駐在した首都のキトは、高度約2,800メートルの高地に位置している。そこから6千メートルを超えるアンデス山脈があり、アンデスを超えたあたりからアマゾンの源流となる。国土は日本より若干小さいが、バラエティに富む自然にあふれた国である。
日本車の4X4やハイブリッド人気が高くディーラーのサービス網も整備されたいい環境で前任者から引き継げた。ただし、この時期は原油価格の低迷により、外貨不足となっていた為に、輸入規制があり、自由にはお客様が欲しい車を調達する事ができなかった。良い製品をお客様に届けるため、日本大使館もバックアップしてくれて関連大臣へのロビー活動等も官民合同でおこなったり、大変興味深い仕事ができた期間であった。もう少し、あの環境での業務を続けたかったが、サラリーマンにつきものの人事異動にて2015年4月に一時的に日本に帰国する事となった。

グループメーカー出向(2015年半年間)愛知県
エクアドル駐在中に、同じグループ企業のメキシコ工場設立に当たり、出向者を求められているが、行ってもらえないかとの話をもらい、行くことを了承した。
グループメーカーの業態は、Pacoにとって初めての樹脂部品メーカーであった。現地では、工場敷地の整地が始まっている段階で、設備の据え付けは夏ごろからという状況であったので、一旦、日本に帰国し、出向先会社の本社およびその周りの工場で、研修することとなった。
建設中のメキシコ工場出向の前提であったので、皆さん親切に事業内容、生産に必要な一通りの知識をお教え頂いた。
7月に第一陣でメキシコ入りした日本からの出向者と共にメキシコ入りし、最初の設備据え付け場所の屋根と床のみできており、未だ壁はできていない状態の工場で、設備の据え付けを始めた。
その後、Pacoは再び日本に帰国し、メキシコのビザを取得、10月にメキシコ、グアナファト州、イラプアト市に向かった。

イラプアト駐在(2015年~2018年)
2015年は、日系企業のメキシコ進出ラッシュだった。現地に赴任する際に取得すべき就労ビザの為の在日メキシコ大使館領事部の最終面接が、遅れたため当初出発予定から数日遅れての赴任となった。
到着後は、建設中の工場近くの仮事務所から、設備の据え付け、建屋の建設、インフラの整備等7月に出向した本社からの出向者(Hさん)と共に何でもやった。社長は、米国からの移駐であったが、2016年からメキシコ常駐となったので、2015年後半は、HさんとPacoで現地対応を行った。もちろん、すでに雇用済のメキシコ人スタッフも数名いた。Hさんは、技術者であったので、主に設備関連の業務が中心だった。総務、経理担当のアドバイザーと言うのがPacoの肩書であった。
2016年5月頃には、最初の部品を出荷する契約となっていたので、それに合わせて急ピッチで種々対応したのだが、中々思い通りには行かなかった。Pacoの過去の経験は、大いに役立ったと自負している。
・バルセロナでのグループ企業の工場立ち上げでの設備据え付けを含む取引
・パンプローナ、キトの事業体で経験した銀行からの資金調達
・商社マンとして培った各種輸送の最適化
等々である。
上記の苦労の末、何とか工場の完成し、予定通り2016年5月から部品販売がスタートした。
その後、2018年年末まで、その工場でお世話になった。

充電期間(2019年第一四半期)名古屋勤務
2019年1月からは、久々に名古屋勤務となった。自社もマイナー出資しているグループ企業の子会社にメキシコ及び米国業務に対するアドバイスを中心に出向してくれないかとの打診を受ける形で、名古屋の担当部署所属として籍を置いた。出向予定会社社長との面接等を経て出向は決定となったが、海外駐在続きで、ペンディングとなっていた入社30年目の特別休暇を取得し、3週間の休みをもらった。
2月に家内とアルゼンチン旅行を決行した。イグアスの滝、メンドーサでのワイナリとアンデス山脈、パタゴニアでの氷河見学の後、ブエノスアイレス観光も楽しんだ。この旅は、日本ーブエノスアイレス間の航空券をマイレージで手配し、アルゼンチン国内旅行は、現地に駐在している友人から紹介を受けた地場の旅行社に手配頂いた。大変楽しい旅となった。

グループ企業子会社への出向(2019年~2020年)滋賀県
滋賀県の自動車関連素材メーカーへ出向した。その会社は、米国に生産拠点、メキシコに販売拠点を持っており、その構造改革を任された。米国工場は、原材料を中国から輸入していたが、トランプ大統領の政策も関連したのかその原材料がダンピングと認定され追加関税が課せられた。Pacoは新入社員時代扱った日本製鉄鋼製品で、米国よりダンピング関税をかけられた経験があったので、大いにその経験が役立った。例えば、日本でも同じ原材料を使って製品を生産できるので、米国への輸入を諦め、原材料を日本に転送する事により、損失を低減する事に成功した。
8月から9月にかけて米国、メキシコに出張し、構造改革最終案を作成、日本にて業務を進めた。
2020年2月の定年と同時にこの会社への出向は終了した。

システム販売(2020年~2022年)名古屋勤務
2月に定年退職となり、3月より再雇用頂いた。再雇用に当たっては、「リセット休暇」と呼ばれる一か月の休暇を頂けた。家内と新婚生活を始めたバルセロナからフランスのボルドー、スペイン北部のサンセバスティアンに移動し、そこからスペインの他の都市への滞在も予定していたが、その地区でコロナが爆発的に増えロックダウンが宣言された。もうこれ以上の滞在は無理と判断し、急遽帰国、3月中は、自宅で隔離生活を送った。
この年の4月からタイを中心に受発注、納入システムの販売を行うセクションでお世話になっている。
初版の事情により、このプロジェクトは、2022年12月をもって終了する事になり、22年は、撤退の作業が中心となった。何とか予定通り22年末にて撤退を完了させた。

自動車部品メーカ間受発注、納入システム開発(2023年~ )名古屋勤務
23年1月からは、社内の同じグループにて、開発中の上記システム開発に携わっている、24年5月、全世界関係拠点、客先、サプライヤーの使用開始に向けて奮闘中。


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