前の記事で、9.11米国同時多発テロ発生から、9月14日にカラチから緊急一時退避をする事になった経緯を書きましたが、我々の長男が在籍していた「カラチ日本人学校」も先生方が緊急退避をされ、日本に一時帰国となってしまいましたので、休校となりました。
海外の日本人学校は、在外公館の付属で、運営母体は、その地の日本人会が行うと言うのが普通です。
カラチの場合は、在カラチ日本国総領事館付属カラチ日本人学校となっています。
運営は、カラチ日本人会が行い、学校担当の理事が運営委員長となります。
運営委員会とは別に「育友会」と言う日本で言えばPTA的な組織にて細かな運営を行っていました。
たまたま、当時私は「育友会会長」を拝命しており、先生方と共に、学校運営を相談し、運営委員長に報告しながら先生の働きやすいように調整する役割をやらせて頂いていました。
前の記事では、突然一時帰国となり、東京にて「東京分室」からカラチの業務を遠隔にて支援していたと記載しました。
日本人学校の先生方も同じように校長先生と東京都出身の先生が、文部科学省の中にできた「カラチ日本人学校連絡室」にて連絡業務を行っておられました。
その他の先生は、各都道府県の出身学校に一時的に帰られ、そこから担任の児童生徒への連絡、指導を行って頂いていました。
先生方のご支援で、一時的に一時帰国先の学校に編入し、児童生徒たちは授業を受けておりました。
パキスタンには、カラチとイスラマバードに日本人学校があり、イスラマバードも文科省に連絡室をもっていました。
11月に入ったころから、米国のパキスタンをベースにしたアフガン作戦も軌道に乗り、パキスタンに対する外務省の海外危険情報も一段階下がりそうとのうわさが出始めました。
この頃から企業もいつ駐在員を再度任地に派遣するかと言う事を考え始めていました。
外務省の危険度が下がっても、日本人学校が再開されないと家族の再赴任が難しくなると言う事で、11月に入ってからは、仕事もそっちのけで、日本人会の学校運営委員長と共に文部科学省、外務省への陳情、数少ない児童生徒(当時は10人をちょっと超える児童生徒数でした)の父兄の嘆願書等を準備したり、イスラマバードの運営委員会との調整をしたりと結構やるべきことはたくさんありました。
そうこうしている内に、11月20日くらいに、息子の担任の先生より電話を頂きました。
「Pacoさんは、以前アフリカを担当されてて、南アフリカに行かれたことがあるとおっしゃてましたよね?」
「はい、アフリカには駐在はありませんが、長期出張で南アフリカに滞在したり、その他の国々に出張した事がありますよ」
「本日、文科省から、11月末までにカラチへの渡航が決まらない場合は、南アフリカのヨハネスブルグ日本人学校への辞令を出すと言われてしまい、是非カラチに戻りたいと言ってはみましたが、万が一の時はどんなところか知りたくて電話しました」との事でした。
ヨハネスブルグ日本人学校は、長期出張時に駐在員家族と日曜日に行ってテニスをやったことがありましたので、
「ヨハネスブルグも治安は、そんなに良い街ではありませんが、日本人学校はカラチよりちょっと大きくて、治安のいい地区にありましたよ。でも、先生には、是非カラチに戻ってもらいたいですよね」
と言う話をしました。
インターネットで、当時の記録がないか探したら、下記の文科省の発表を見つけました。
ここに記載の通り、危険度4から3への変更は、11月28日でしたので、先生方を違う任地に再赴任させる事なく、何とか11月中に学校再開のめどが立ったのは、本当にラッキーでした。
但し、この直前には、文科省、外務省及び我々の間で、大変微妙なやり取りがありました。
文科省は、間もなく外務省が危険度を下げる様な動きがあるので、学校再開に向けて準備を始めるが、再開の場合は、何人の児童生徒が戻るのか確認して欲しいとの話がありました。
カラチは、民間企業の子息がメインの児童生徒、イスラマバードは、大使館関係者、JICA等の公的機関の派遣員子息がメインです。
民間としては、外務省の危険度の低下を確認してからの調整とならざるを得ません。
一方で、大使館員等の外務書管轄の方々は、すでに情報があるので、再度イスラマバードに戻る児童生徒の数を早々にコミットできたのです。
上記の文科省文書をご覧頂くと、イスラマバードの教員は、その時点で学校の再開が決定し、5名の先生の航空券も手配済みだったのに対し、カラチの先生達の航空券が手配されていなかった事が明記されていますが、上記の様な微妙なやり取りに起因する違いでした。
何はともあれ、何とか日本人学校の再開のめども立ち、私は、12月の初旬にカラチに向かい、2002年の正月明けに、家族もカラチに迎える事ができました。
1月から息子はカラチ日本人学校、娘は現地の幼稚園に再び通う事ができました。
治安に注意しながらの生活ではありましたが、カラチでの日常が戻ったと思っていましたが、またまた2002年6月にインドとの関係悪化に伴い、再び緊急一時退避を強いられるとはこの時は知る由もありませんでした。
次回に続く…。
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